2018年06月04日

純文学とエンターテインメント

温が安定してきたのでモノクロの現像をやり易くなった。デジタルが一般的になってフィルムの撮影方法すら知らない人が増えたが、現像となると、さらに技術や経験が伴う。どんなに素晴らしい撮影をしても、最終的に「写真」と呼ばれるためにはこの過程を完璧に通過しなければ成り立たない。相まみえない化学と感覚を一緒にする作業なのだから、上質なネガを生み出した時の喜びといったらない。データと感覚。撮影自体にもそんなところがある。


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純文学とエンターテインメントについて、という新聞記事の内容を写真に置き換えて、先輩写真家氏がfbでコメントを寄せていた。その言葉に共感もしたし、あの方もこんな風に写真と向き合ってらっしゃるのかと単純にうれしかった。

ここで純文学系とエンターテインメント系の写真について語るつもりはない。評論家でもないし表現という枠の中では同じ写真であることには変わりはないからだ。ただ、撮り手の気持ちを撮影の瞬間まで惑わせ、結果、仕上がった写真に釈然としない思いを残すこともある時代になったことは確かだ。

自分に置き換えての結論だが、デジタル化がもたらした情報過多によって生じる迷いだと思われる。フィルムからデジタルへ移行した時間を歩いた人間にしてみれば、これほど楽しい写真時代を迎えるとは想像もしていなかった。

感度の違うフィルムを入れ替えなくても明暗に対応でき、ゼラチンフィルターを被せなくても色温度を調整できる。さらに、撮り終わった写真データに手を加える、パソコン上の「第二の撮影」を施し、エンターテインメント風に表現することも可能になった。それに伴い写真を別次元から作り出す人たちの影響力も多岐にわたるようになる。楽しいはずの写真時代を突き詰めてゆくと、プロでさえ今自分がどの辺りで写真を撮っているのか分からなくなってしまう危険性もはらんでいたのだ。

拙著「結いの村」の制作でアドバイスを頂いた写真家、橋口譲二さんは一切デジタルで作品を撮らない。理由は「僕はデジタルを扱えませんから」。他にも世界的に活躍する写真学校時代の同級生も作品はフィルムだ。彼らはデジタルを扱うことによって生じる迷いを本能的に分かっているのだろうか。そうは言ってもデジタルで様々な表現を見せる著名な写真家も大勢いる。

デジタル的な迷いを起こさせないように、全てフィルムへ回帰することは自分の仕事の範疇では不可能だが、フィルムに戻したからといって前出の問題が解決するとも思えない。


篠山紀信氏が、著書「写真は戦争だ!」(河出書房刊)の中でこう語っている。

「僕は過去の自分の作品を振り返って写真について語るようなことはしたくないんです。いま撮っている写真の中にこそ僕の写真論があるし、写真の現在がある。(中略)僕の写真論は、いま戦っている現場からの『戦況報告』なんです」








posted by オガワタカヒロ at 23:34| 宮崎 ☁| Comment(0) | 写真のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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